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こんにちは。
カイゼン研究会 宇賀です。
先日
江蘇省の揚州というところに
行ってきました。
美食の街として有名で
いたるところに
揚州早茶(点心やお茶)という
看板が並んでいます。
特に午前中は
少し古びた狭い路地に入ると
点心屋、麺屋、スープ店
いろんなお店から
美味しそうな湯気が出ており
路地を歩き、
良いにおいに引き寄せられ
店をのぞきながら
どの店で食べようか迷っている人たちが
たくさんいます。
本当に優柔不断なので
決めきれないまま
気付くと路地の終わりに来てしまい
もう一度戻ったりしないといけなくなります。
他にも
揚州炒飯は
中国各地で食べられ
有名なので
それに負けないくらい
炒飯専門店という派手な店が
並んでいるのですが
タクシー運転手に聞くと
あんなものは観光客以外食べないよ。
と
冷たく否定されます。
すごく美味しそうなのですが、
食べにくくなりました。笑
揚州は、
蘇州と並ぶ
水の都ということで
昔から水運の拠点、
商人の交流の拠点、
文化が生まれる場所として
にぎわっていたそうです。
かなり昔の話で言うと
日本からの遣唐使も
唐の長安に向かうまでに
最初に蘇州に上陸し
その後、立ち寄る場所でもあったそうで
井上靖さんの
「天平の甍(てんぴょうのいらか)」
という小説の中でも、蘇州と揚州が描かれています。
この小説は
日本から唐に向かった
遣唐使や留学僧が主人公で
唐の大僧侶である鑑真と会い
日本へ来てもらうまでの
困難や葛藤を描いた内容で
この鑑真がいた
大明寺というのが揚州にあります。
それを読んだ時に
小学生時代の遠い記憶で
鑑真ってなんか習ったよなぁ
というのもありましたし
小説の中で
当時の留学僧たちが
とてつもない労力や犠牲を払いながら
鑑真の日本渡航を成し遂げる様子を見て
ここまで人生をかけて
日本に呼びたい人だったのか
という驚きもあり
この大明寺を訪れました。
大小のお寺や伽藍が
10か所以上ある場所ですが
鑑真記念館など、
彼のゆかりや解説のための場所が3つほどあります。
奈良の唐招提寺から送られた
巨大な石灯篭などもあり
日本との交流が見えたりします。
日本のお寺ではよく見かけるけど
中国ではあまり見ない
枯山水風(小石や砂で整理された庭園)
の庭園もあり
とても静けさのあるお寺です。
当時の鑑真の渡航記録もあり、
ガイドさんの解説も面白く
鑑真の弟子が
日本に行かせないために
役所に密告し、渡航させないようにしたり
嵐にあって引き返したり
5回目の渡航では暴風雨の中、漂流し
なんと海南島に行ってしまうということも
あったようです。
その時点で
渡航に挑戦してから10年以上たち
渡航を依頼しに行った日本人僧は
唐に渡ってから20年以上たっていたそうです、、
渡航がなかなかできない間に
鑑真の弟子や日本人僧も亡くなったり
しており、鑑真自身も失明したり
日本に行くために信じられないくらい
犠牲を払っていることが解説されます。
初回の渡航失敗から6回目の成功まで
足掛け12年もの月日がかかったとのことです。
お寺を回りながら
ここまでの話を聞いていていると
そもそも
なんで当時の日本(朝廷)は
そこまでして唐から
鑑真という人を呼びたかったのか?
という疑問がわいてきます。
当時の日本に目を向けると
その頃は奈良時代で
隋、唐に倣いながら
律令制を整えていき
その中で国としての安定のため
仏教に力を入れている時期でした。
全国に国分寺を立て
仏教の中心のために東大寺を作り
奈良の大仏を作るという
大プロジェクトをしていた時です。
国分寺は国として費用を出し
そこの僧は官僧として
国の認可、登録が行われた者のみでした。
しかし、
民間でも
仏教信仰は広がっており
修行など
正式に僧になる手順を踏んでいない人も
納税や労働の義務がない
ということに目を付け
勝手に僧になるということが
増え続けて、コントロールできなくなっていた
というのが背景にあります。
(私度僧)
よくわからない僧が増え
税収も減り
働き手も減る
誰が正式な僧かわからない問題が
あったようです。
そこで
正式な僧に必要な
・戒律(僧の制度とルール)
・授戒(仏さまの弟子となるための儀式)
を整えようというのが
この物語の始まりにあたります。
当時の日本には
仏教界で授戒ができると
認められた僧がおらず
国として仏教を立て直すために
必要としていました。
それができる僧が
授戒もでき、
唐でも戒律のプロとして認めらていた
鑑真だったそうです。
国の介入や強制で
正式な僧をすべて登録制にすると
仏教や民衆からの反発もでるし
信仰ではなくルールの強制になる。
そうではなくて
仏教界の掟に従い
大国の唐で認めらている僧によって
授戒を行い、戒律を守っている者を本当の僧と認める。
誰が正式な僧だと判断がつかない。
という問題に対して
この正式とは何か?
という部分を
権威のある唐の僧侶によって
解決しようというのが、
留学僧を派遣し
唐からの渡航を頼みに行った目的になります。
鑑真からすると
異国である日本の仏教界に対して
自分の戒律を伝授することで立て直しを手伝う。
そんな
和尚としての良心のみで
この困難の中、唐や弟子からも反対される中
(このころの唐は国外に行くのは禁止でした)
12年かけてやっと渡航します。
日本の僧に対して授戒を行い、
東大寺を授戒の中心として立て直し
戒律を根付かせただけでなく
76歳の生涯を終えるまで
日本で
唐の建築技術などの
文化や技術を教え続けた
という人生は、
本当に人のためだけに
惜しまず、自分の持っているものを
与えるという聖人の鏡のように思います。
この授戒制度の広がりが
後の唐への留学僧、
最澄や空海につながっていきます。
最澄は戒律(僧になる条件)
の内容を進化させ
東大寺のみでなく
比叡山でも新たな戒律(大乗戒)を運用し
僧になるための別のシステムを作りましたし、
(正式な僧という入り口の進化)
空海は
戒律そのものではなく
戒律を受けた後の
僧の中身の部分(何ができるか?)
の改革を行いました。
密教の技術、儀式、
それを習得するための
高野山での修行ルートを作りました。
戒律という標準的制度が定まり
日本での仏教が洗練されて
いろんな形に進化し広がっていく
鑑真が
その最初の起点、基準を
作ったということを知り
彼が歴史の教科書に
大きく写真付きでのっていた理由が
やっとわかってきた気がします。
ちなみに
結局、チャーハンは食べましたが
あまり違いはわかりませんでした。笑
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