おはようございます。
カイゼン研究会 宇賀です。
かなり
久しぶりに重慶に行ってきました。
前回行ったのは
学生の頃だったのですが
初日に財布をすられてしまい
まだ
電子決済や
配車アプリもない時代だったので
ほとんどの時間を
ホテルの徒歩圏内で
過ごすしていた思い出しかありません。笑
火鍋を食べた街くらいの記憶です。
今回、重慶に着くと
傾斜だらけの土地に
高層ビル群が立ち並んでいて
立体的な要塞のように
街全体ができていることに
改めて驚きました。
街もきれいで
近未来的なのですが
少し裏路地に入ると
上海ではあまり見かけない
小さな民家を改造したような
火鍋屋がたくさんあり
細い坂道の路地に
中国独特の
赤い提灯がかかっているのが目印で
麺屋と同じくらい火鍋屋があり
辛い美味しそうなにおいが
そこら中に漂っています。笑
ですが
今回の目的は火鍋ではなく
国民党、
重慶政府時代の足跡巡りと
もう一つ
60年代中国の核生産拠点の跡が
今は観光地として公開されているということで
見に行きました。
まず
戦時中に蒋介石が生活と仕事をしていた
官邸を見に行ったのですが。
(抗戦博物館)
博物館とは言いながら
山に囲まれた場所で
当時の邸宅兼執務室や
防空壕が今でも残っていてます。
緑に囲まれた山間にあり
2階建ての西洋建築で
妻である宋美齢の家や
息子の蒋経国の家なども
同じ敷地内にあります。
国民党が
南京から武漢
そして、重慶に移動していく中で
戦時中の重慶において
ほとんどの時間を過ごしたのが
この官邸だそうで、
山の中の別荘で
日本による空襲を避け
そして
時には
長く掘られた防空壕に隠れる
という生活が思い浮かび
ここで
終戦まで
指揮をとっていたことを想像すると
不思議な気持ちになります。
「蒋介石日記」という
本人が
1920年~1970年くらいまで
描き続けてきた日記があり
当時の状況が書かれているのですが
それを読むと
かなり
この重慶の官邸で
不安で我慢の時間を
過ごしていたのではなないかと
思えてきます。
日中戦争当初から
蒋介石は
講話でもなく
全面対決でもなく
「国際的解決」
つまり
日本の違反が
国際問題化し
ヨーロッパ・アメリカの介入による解決
に持っていくという
大戦略を立てていました。
しかし、
首都まで重慶に移管して
この戦略を貫いていたのですが
蒋介石が思ったような
シナリオにはなかなかなりません。
突然
独ソ不可侵条約が締結されたり、
日本とソ連も
ノモンハンで停戦したり
寝耳に水のことばかりおきます。
国際的解決の前に
ヨーロッパでの戦争が始まってしまい
頼りにしていた
ヨーロッパはアジアの問題解決どころでは
なくなっていきます。
アメリカも
ヨーロッパの優先度が高くなってしまい
蒋介石としては被害が拡大する中で
国際的解決までの時間が
想定したよりどんどん伸びていく
事件ばかりが、次々起こります。
国民党内部や
フランスからも
日本との講和を勧められる中で
普通なら
決心が揺れそうになるはずですが
重慶を首都にし
四川を開発、発展させることを
進めながら
当初の戦略を変えない
という態度を貫きます。
日々変わっていく
国際情勢の情報を受け取りながら
中国としてどうするかを考える。
5年以上もそんな重責を
背負い続けながら生活していたのが
この緑に囲まれた
山奥で、すごく豪華とは言えない
2階建ての一軒家の中だったのか。
と
感慨深い気持ちになります。
ちなみに
国民党政府は
なぜ重慶を選んだのかというのも面白いです。
満州事変時点ですでに
首都移転まではいかなくても
第2の拠点を構える案が出ていました。
もともと
陝西省や河南省
湖南省やあたりが候補として
挙がっていたそうです。
四川省(重慶)は候補ではなく
その理由は
四川には四川の軍閥があったからです。
名目上は国民党に
所属しているのですが
実質は
中央のコントロールは効いておらず
四川にはそれぞれの地域を
統治している軍閥がありました。
表面上は協力するのですが
域内の権力が削られることを嫌がり
中央軍の駐留には抵抗します。
そんな中
共産党の紅軍が
国民党からの攻撃を逃れ
貴州、四川方面に押し寄せます。
それを討伐するという口実で
蒋介石は中央軍を
四川にも派遣し
徐々に四川の行政を
中央の軍や官僚で握れるようになっていきます。
一番抵抗していた実力者
劉湘が途中で亡くなったこともあり
蒋介石が四川を掌握することになります。
そんな経緯があり
資源も豊富で広大な
四川(成都・重慶)を南京政府の
第2の拠点となっていくという風になったようです。
(日本の面積の1.3倍)
1930年代の中国が
国民党の中でも様々な派閥があり
地域ごとにも権力が別れ
その上、別に共産党もあるという状況で
どれだけ複雑だったかが分かります。
その後、
南京政府から重慶への
移転にもドラマがあり
武器や生産工場、設備、人員を
南京や上海からどうやって
移動させるかというのがありました。
長江を使って
船で10万トンにも及ぶ物資を移動させるのですが
現在の三峡ダム(宜昌付近)で
河が細くなってしまうので、
そのまま運搬できず
そこで荷物が溜まってしまい、
重慶までたどり着けない
という混乱が起こりました。
季節的にも水位の関係から
船が通れる期間が決まっていたり
日本軍に追いつかれてしまう
タイムリミットがある中
現地民間の海運会社(盧作孚)が
大活躍した逸話も残っています。
(混乱している荷物ごとの優先順位、運ぶ船(大中小)の総動員で何とか間に合わせます。)
ちょっと話がそれましたが
この時代の重慶の様子は
教科書などでは
政府本部の移動という
一行くらいで表現されるのですが
よく想像してみると
ものすごいことのはずで
交通ということを
考えるだけでも
山を切り開いて道路を造ったり
沿海部から人が大移動して来たり
で起こるドラマがあったでしょうし
四川に
もともといた人からすると
急に蒋介石の厳しい管理や納税が
始まったり、徴兵があったりと
反発も必ずあったはずですが
想像しだすときりがなくなるので
いったんこの蒋介石の官邸から離れます。
次は
また時代が変わり
1960年代の
三線建設と呼ばれる
内陸開発プロジェクトが背景の
核生産施設を見に行ったのですが
ちょっと
蒋介石の話で
思った以上に長くなりすぎたので
改めます。
もちろん
夜は火鍋を食べ
普段はあまりないような
素材が数々ありましたが
(豚の歯茎など。)
ちょっと
辛すぎて味が分からなくなるので
万人におすすめとまでは言えません。。笑
P.S
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