おはようございます。
カイゼン研究会 宇賀です。
先週、
重慶の話が長くなってしまったので
今回はその続きです。
(前回のコラムはこちら)
重慶政府時代の
蒋介石の官邸から移動しました。
次の目的地は
また時代が変わり
1960年代の
三線建設と呼ばれる
内陸開発プロジェクトが背景の
核生産施設跡を見に行きました。
(816工程という場所で、現在は観光地となっています。)
重慶の中心から
車で2時間ほどいったところに
巨大な地下施設跡があります。
先ほどとは比べ物に
ならないくらいの山奥で、
長江沿いに
山々が並び
その複雑な地形で
山と谷が連続している一部に
急に現れます。
見たことないくらい
高い煙突が立っているのが目印で
山を掘ったトンネルがその入り口になります。
長い間、
機密になっていたその場所は
当時は地図からも名前が消されており
6万人もの人数をかけて
山とその地下に巨大な施設を建設しました。
ビルだと
5階建てくらいの
ものすごい高さの内部トンネルと
迷路のように複雑な
施設内が延々と続いており
プルトニウムを生産する
巨大な設備跡や
その測定装置
炉を冷やすための排水設備など
見たことない施設と
巨大なトンネルが延々と続きます。
ガイドを見失うと
地下から出られなくなるんじゃないか
という施設です。。
(ガイドも歩くのがすごく早い。笑)
これは
1960年代に始まった
三線建設というプロジェクトの一部だそうで
私はほとんど知らなかった背景があります。
1949年に
中華人民共和国になってからの
大まかな変遷のイメージで言うと
まず、
初期は
ソ連支援での
工業発展の時代があり
その後
毛沢東による大躍進政策になり
中国独自の工業化路線で
農村を統合、共同集団化し
人民公社という単位で
農業、工業、行政すべてをひとまとめにし
農村主体での計画経済を推進する
ということがありました。
詳しくは書かないのですが
主な目標は鉄鋼の生産でしたが
技術もない中で
農村主体での
鉄の生産はうまくいかないだけでなく
農業も疲弊し
飢饉も起こり
継続不能になります。
この政策がうまく進まず
毛沢東から
劉少奇などにコントロールが移っていく
そんな変化の中で
文化大革命が起こり
国内は混乱を極め
80年代トウ小平による改革開放が
始まるまでは
経済が低迷する時代になってしまう。
という流れなのですが
三線建設というプロジェクトは
この大躍進政策が
うまくいかなかった後に
始まった工業化政策だそうで、
1960年代~70年代にかけて
内陸でこんなに
大規模な開発が行われていたことに驚きます。
てっきり
文化大革命によって
経済すべてが止まっていたような
イメージを持っていたのですが
当時の国防を目的とした
軍事工業、工業の内陸移転と
生産場所の分散を進めていたようです。
当時の
日本との対比でみると
驚くほど対照的です。
かたや
東京オリンピックが決まり
新技術、新幹線を導入し
カラーテレビを普及させ
所得倍増計画も締めくくり
もはや戦後ではなく
本格的な高度経済成長を
成し遂げているという
明るいイメージの時代だったのに対して
中国では
まったく反対の非常事態
冷戦によるリスクを見据え
国家としての
危機対応をしていたことになります。
スターリンが去り
フルシチョフ政権くらいから
ソ連との関係悪化が表面化していきます。
(ソ連からの支援がすべてがなくなる)
ソ連との関係が悪いまま
1962年にキューバ危機が起こり
核兵器のリスクや
ソ連が最終的にアメリカとの交渉で
核ミサイルを引き上げたことで
核攻撃のリスクと
ソ連は信用ならないという
気持ちが強くなります。
それに加えて
中国と目と鼻の先のベトナムで
アメリカによる爆撃が始まり
この1964年の
中国(毛沢東)からすると
当時もっとも大きなリスクは
国防・軍事面にあり
国内の主要地域(沿海部)が
攻められた場合でも
戦争を継続できる体制の構築が急務になります。
そんな背景から
軍事工業や兵器、核施設を
内陸に建設したり、
沿海部から移転してくる
というのが三線建設というプロジェクトです。
ちょうど
東京オリンピックが開会した
1週間後に、
中国は原子爆弾の実験成功したことが
ニュースになりました。
冷戦やベトナム戦争という
歴史上の出来事が
中国視点で見ると
あまりにも身近で
国の危機として捉えられていたことを
この大規模な地下施設に入ると
改めて考えさせられます。
同じ出来事でも
まったく見えていた世界がちがうと
痛感する施設です。
日本では
オリンピックをしていて
能天気だ見たいな描き方になりましたが、、
そんなことはなく
国防や冷戦のリスクは
争点になっており
当時の
議席の3分の1を占めていた
最大野党として
日本社会党が強かったり
激しい学生運動があったりと
今の感覚では
想像しにくい状況
が日本でも起こっていたはずです。
この時代の
小説を取ってみても
背景に社会主義や学生運動、冷戦が
描かれているものが多く
大江健三郎の
「万延元年のフットボール」
や
柴田翔の
「されどわれらが日々」
など
60年代の
学生運動がストーリーの背景にあります。
80年代の
村上春樹の
「ノルウェイの森」
でさえ、当時のことを振り返っていたので
当時は大学進学率も低いため
かなりエリートだったはずの
大学生や知識人にとって
社会主義や冷戦の影響力は
今ではイメージできないほど
大きかったことが感じられます。
話がだいぶそれましたが
地下施設に話を戻すと
60年代から建設が始まり
結局稼働はせずに80年代に
プロジェクトは終了します。
2002年に初めて
国家機密という対応が解かれ
公表されました。
ガイドの話では
当時建設をしていた人たちも
自分が工事して掘っている
巨大な地下道や施設が
何に使われるかも
知らなかった人もいるようで
この現場に配属になった人は
親にも、妻にも、子供にも
この場所のことを言わないという誓約を
最初にしたようです。
後年、
情報が解禁されてからは
テレビの取材などで
当時の状況を
実際に働いていた人に
インタビューしようとしても
老人たちは
「機密だから言えない」
の一点張りで答えてくれなかったそうで
当時どれだけ
情報機密の徹底が
従業員に徹底されていたかを
うかがい知ることができます。
ここは核兵器用の
プルトニウムを
ウランから
生産するための工場として建設され
完成はしたのですが
原子炉での臨界、
核分裂による
核物質の生産しないまま
工場は停止になりました。
地形があまりにも険しく
工期が延長したことから
陝西省や四川省にも
同じような工場を作り
そちらでの生産で間に合ったようです。
この三線建設プロジェクトを振り返ると
実際に、想定した危機は起こらず
70年代以降は軍事ではなく
外交によるバランス維持を
重視するようになったため
(各国と国交を樹立していった)
60年代に完成した
兵器や軍需工場の稼働率は
低いまま廃止になったりしています。
国の方針が変わり
経済、国民の生活向上重視になった
改革開放後は
生活品や工業品に
転用された例もありますが
数字上の投資対効果で見ると、
成功とは言えないものがほとんどです。
しかし、
当時この建設のために
内陸部に鉄道を引いたり
都市部の技術者や知識人
その家族など
人的な大移動もあり
内陸部の発展につながる
基盤が作られたという見方もあります。
例えば
ソ連の支援で
中国東北部の長春に建設された
「第一汽車」は
当時ソ連にも近く
平地でリスクがあるとみなされ
この三線建設で
湖北省の山奥に
軍事トラックなどの生産拠点のため
「第二汽車」が作られました。
第一汽車だけでなく
北京や上海などの全国から
技術者や労働者が集められ
完成した「第二汽車」は
三線建設終了後には
「東風汽車」になり
このプロジェクトの遺産が
大企業にまでなった例として残っています。
なにか
こんなことばかり
書いていると
あまり面白くない場所の
ように見えそうなので
別の要素も書くと
この地下施設内
うすぐらい巨大トンネルの中に突然
「ワインバー」があります。
メニューには
ワインを使ったカクテルや
おつまみなどがありますが
こんなところに
お客なんていないため
貸し切りになります。
しかし、
ちょっと1杯頼もうとすると
「今はボトル単位でしか注文できません」
と断られるので
行かれる方は気を付けてください。
メニューに書かれているものは
ほとんどありません。
「誰がこんなところでボトルワインを頼むのか」
と思いながら、
もう一度
長いトンネルを歩きながら戻り
地下施設を出ました。
特に美味しい
ご飯などもないので
アピールできることが少ないのですが、笑
そこから1時間くらい離れた場所に
世界自然遺産で
映画トランスフォーマー
の撮影地としても使われた
天生三橋があるので
そちらによっても良いかもしれません。
P.S
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